「耳順」とは、「次の世代を信頼できるようになった」ということである。
「耳順」とは論語にある言葉です。60歳の異称であり、「人の言うことを素直に聞けるようになった」と解釈されています。私は割と早い時期からこの解釈を受け入れており、疑うことはありませんでした。
ところが、60歳近くになってからこの解釈を疑うようになりました。退職が近づき自分もそれなりに社会的責任を背負う立場になってみると、孔子ほどの人ならば、人の話を素直にしっかりと聞くことは60歳になる前からできていたはずだ、と思うようになったのです。これが、この解釈を疑う第一の理由です。
次に二つ目の理由です。60歳を超え退職し、社会的な責任から解放され体力的な衰えを自覚するようになると、つまり老いを迎えると、確かに人の話は素直に聞けるのですが、「まあ、いいか」とか、「仕方ない」とか、心の中で呟くことが多くなりました。これらの言葉は、もうどうすることもできないという諦めの言葉です。いわば老人の敗北宣言ではないでしょうか。こういった言葉は、素直に人の話を聞いている場合には出てこないです。
しかるに先日ある出来事があり、若い人に任せればいい、と思えるようになりました。若い人は若い人なりに考えていています。そして、私たちの考えを受け継ぎつつ新しいやり方を創造しています。そう思うと、「まあ、いいか」という言葉はあまり出てこなくなりました。そして人の話を素直に聞けていると思えるようになりました。
60歳代の孔子は、仕官を求めて弟子たちと共に放浪の旅にありました。50歳で天の命を知ったという孔子は、50歳半ばを過ぎて仕官を求め、弟子たちと諸国放浪の旅に出ます。その10数年にわたる旅の途中で孔子の心に芽生えたものは、教えを受け継ごうとしている弟子たちへの信頼だったのだろうと思います。
こういうわけで私は、「耳順」とは、次の世代を信頼できるようになった人の心に芽生える素直さである、と解釈するようになりました。
いわゆる天才は、特に芸術の世界にある人などは、自分が表現しようとしている美しいものにたいして惑いはないはずです。「惑い」がなければ「不惑」はありません。また、人の話を聞くことはないのですから「耳順」もありません。そうしてみると、孔子は天才ではなかったのかもしれないです。
いっしょに読んでください。